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義郎
死を奪われた老人

先日、朝の通勤電車の中で少しびっくりする光景に出くわした。80歳くらいのおばあちゃんが、パソコンが入っているであろう大きなバッグを抱えながら、リポビタンDをくいっと飲み干していたのだ。
その光景を見ながら、ふとこんなことを思った。もしかしたらそれは未来の自分たちの世代の姿かもしれない、と。老体に鞭打ちながらせっせと働きに出かける、というのは今40代の自分たちがその世代になったら珍しい光景ではなくなっているのではないか。私たちは、インフレに苦しみ、年金もなく公的なセーフティーネットも崩壊し、何事においても自助が求められる世界を生きることになるだろうから。
多和田葉子さんの『献灯使』の舞台は近未来の日本。詳細は語られないが大災厄に見舞われた後、日本は鎖国し、人々は海外に行くこともできず、また、外国語の使用も禁止されている。ジョギングは「駆け落ち」という言葉になり、ターミナルは「民なる」に。国家予算もほとんどなく、政府は民営化されている。交番は「未知案内」と名前を変え、観光案内も兼ねた有料サービス機関となっている。インターネットも電話も使えず、メッセージは手紙として飛脚伝達人が運ぶ。乏しい資源とインフレ(共産主義社会のようにオレンジの価格は全国一律で1個1万円)に苦しみながら人々は生活を送っている。
この大災厄が起きた時に高齢だった人は何らかの理由で不死の体を手に入れたらしい。主人公の百歳を超えた作家の義郎も死ぬことができない。身体はぴんぴんしており、毎日せっせと働く必要がある。逆に、それ以降に生まれた子供は病弱で体の機能も世代を経るごとに退化している。義郎は、曽孫の無名と二人暮らしをしているが、無名(せんべいは硬過ぎて食べられず、フルーツも酸が強過ぎるものは食べられない)は慎重に食べ物も選ぶ必要がある。歩くこともままならず車椅子を使っている。義郎が無名に接している様子を見ると、それは介護といった方が近いかもしれない。
この物語における義郎は、老人が老人らしく生きられない世界とはどのようなものになるかという問いを投げかける。老人らしく、の一つの側面は、自分の資産や知識を次世代に受け渡していくこと。そして、自分が歩んできた人生に意味を見出しそれを誇ること。しかし、この世界で義郎はそうすることが叶わない。
例えばこんなことがあった。義郎は勉強が嫌いな孫のために、総合職業学校に3年間通えるだけの資金を積んだ預金通帳をプレゼントした。しかし孫はその口座をこっそり解約し、現金を詰めたスポーツバッグを強盗のように抱えて家出してしまう。義郎の腹は煮え繰り返るが、その1ヶ月後には大銀行が次々と相談し、口座を持っていた人は預金を全部失うことになる。また、かつて「東京の不動産を買っておけば間違いない」という神話がありもちろん義郎もそれを信じていたが、大災害に伴う環境汚染で東京23区は人が居住できないエリアになった。こうしたことが立て続けに起きる。車の運転を子どもに教える、というささやかな夢も叶わない。義郎は「子孫に財産や知恵を与えてやろうなどというのは自分の傲慢にすぎなかった」と気づかされるのだ。彼が必要なのは「これまで百年以上をかけて正しいと信じていたことをも疑える勇気」。彼は、頼りにしていた常識が消失した世界を生きないといけない。
パンの名前はドイツの地名の名残で「刃の叔母」「ぶれ麺」、インターネットがなくなった日を祝う「御婦裸淫の日」。この物語の中で半ばダジャレとして登場するこうした言葉の変化には、老人たちの常識や価値観を強奪するようなある種の残酷さを感じるこそ見て取れる。変化する言葉に合わせて、同時に彼らの世界観が変わっていくようにも思える。変わっていく、というか変えさせられていく。美意識、感性も変化する。義郎は他の老人と「未来の人は蛸のような体の形を美しく思うだろう」という内容の会話をする。美味しいと思うもの、魅力を感じるものが変化していく。そしてそうした認識の変化が、さらに”世界”の変化を加速させる。
現実の社会でも多くのものが高速で変化する。自分も義郎と同じように、経験や積み上げて知識が全て無効化される世界を生きる可能性がある。信じてきたものが全て消え去る世界を生きるのはどのような気分だろう。義郎は100歳を超え「自分は老人なのではなく100歳の境界線を超えた時点から歩き始めた新人類なのだ」と自分に言い聞かせているが、自分もそう思うようになるのだろうか。
医療技術は発展し、不老不死の研究も進み、私たちは「なかなか死ねない」身体を手に入れていることだろう。しかし続く世代が不健康であり、環境汚染も進んでいる状態で自分だけピンピンしているとしたら悲哀ばかり感じる。
40年後、あるいは50年後、私たちは、荒廃した東京から遠く離れ、人類の叡智を結集して実現された不老のテクノロジーを恨めしく思いながら、通勤電車を待つホームでレッドブルをくいっと飲み干しているのかもしれない。
Source
多和田葉子『献灯使』講談社文庫、2017年